伝統工芸「壺屋焼」へとつながるやちむんの歴史をたどる
荒焼(あらやち)
釉薬をかけずに約1120度で焼き上げた焼物を荒焼といいます。装飾はほとんど施されず陶土の風合いをそのまま活かしており、その名の通り見た目の荒さが特徴。南蛮焼ともいわれ、酒甕や水甕、壺など大型の容器を中心に作られています。
上焼(じょうやち)
赤土の上に白土で化粧がけをしたり、釉薬をかけた焼物を上焼といいます。約1200度で焼き上げます。釉薬には水漏れを防いだり汚れをつきにくくする効果もあるため、上焼は食器や酒器、花器など日用品が多く、壺屋焼の主流を占めています。透明釉や呉須など様々な色に発色する釉薬があり、焼き方によって色が変化するのも面白さの一つです。
戦後一早く復興した壺屋は、やちむんのまちから中心市街地へ発展しました。しかし、人口が増えた壺屋では1960年後半から登り窯による煙害が指摘されるようになり、陶工たちはガス窯への転換を余儀なくされます。登り窯にこだわりを持つ一部の陶工は壺屋から読谷村へと工房を移し、登り窯を築窯。現在も絶やさず、火を焚き続けています。
沖縄本島北部
名護市古我知(こがち)の集落に窯があった「古我知焼」は、飴釉や黒釉を用いた施釉陶器が多く見られます。1800年代から途絶えていましたが、1974年に復興しています。また、大宜味村根謝銘城(ねじゃなぐすく)の近くには「作場焼」の窯跡があったといわれています。
沖縄本島中部
「喜名焼」は、読谷村喜名に窯があり、泥釉やマンガン釉をかけた陶器が出土しています。沖縄市の「知花焼」は「喜名焼」と類似した点が多く、区別するのが難しいといわれます。
那覇
現在の県庁所在地周辺には湧田焼の窯があり、1616年に薩摩から招聘した朝鮮人陶工が指導した場所とされています。その後、壺屋への統合が行われ「壺屋焼」が誕生しました。
八重山諸島
「八重山焼」は1724年に仲村渠致元が国王の命を受けて八重山に陶器の製法を伝えたことで発展。当時は荒焼と上焼の製法が伝えられたといわれています。西表島と黒島の間に浮かぶ新城島(あらぐすくじま)では、「パナリ焼」と呼ばれる、野焼きで焼成する土器が作られていたそうです。
壺屋焼物博物館へ行ってみよう!
沖縄の焼物の歴史について、詳しく学ぶことができる博物館。1998年に開館しました。壺屋焼を象徴する登り窯跡や陶房、陶器店が並ぶ壺屋やちむん通りにあります。壺屋焼の技法や製作工程だけでなく、陶芸家の暮らしぶりなども映像を交えて紹介されています。
那覇市立壺屋焼物博物館詳細はこちら
(公式サイトへのリンク)
http://www.edu.city.naha.okinawa.jp/tsuboya/
掲載日:2016.12.24
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